2019年10月4日公開「蜜蜂と遠雷」はピアノコンクールを舞台にした作品。原作は直木賞と本屋大賞をW受賞した恩田陸さんの小説「蜜蜂と遠雷」。
映像化は不可能と言われた原作の映画化を「愚行録」で一躍注目を浴びた石川慶監督が挑みました。
原作を読んだ後、試写会で本作を鑑賞した私は「なんだろ、この消化不良?」と違和感を感じていました。
この気持を確かめるべく再び公開初日に映画を観ると、それは嫌悪感に変わっていました…。
感想を言語化するのにとても苦労しましたが、その理由をブログに綴ります。
※石川監督のコメント ひびクラシック石川慶監督インタビュー「蜜蜂と遠雷」にまつわるえとせとら#5より
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目次
映画蜜蜂と遠雷の感想を書こうと思った経緯
今回、私は幸運にも試写会に当選し、そのために原作を先に読破して会にのぞみました。きっかけは試写会ですが、原作の大ファンになり当日とても楽しみに行きました。
石川監督のこだわりは音楽。「映画館で音をぜひ体感していただきたい」とコメントされています。期待はふくらむばかりです!
原作も素晴らしく、音楽映画だったことで特に楽しみに試写会へ行ったのですが、見終わった後は「なんだろ、この消化不良?」と違和感を感じました。感想は「残念過ぎる…」と。
最初は感覚的なもので、なにが残念だったのか言語化できなかったのですが、日をおいて、原作のスピンオフ小説を読んでその理由が分かりました。
招待されて伺った試写会だけで酷評を書くのは失礼だと思い、公開初日に代金を支払って再度作品を観に行った上で(その間に再度映画についても予習して)感想を書きます。
原作ファンとして疑問残念すぎた具体的な理由(少しネタバレ有)
私が残念だと思った最大の理由は「登場人物の性格が曲げられていて、原作の最大の魅力“登場人物同士の心理描写”が端折られていたこと」です。
恩田陸さんの小説の魅力は、圧倒的な文章力・登場人物の繊細な心理描写です。
その細かな設定が言葉巧みに表現されているので、読者は親近感を覚え心が動かされたのだと思います。音は鳴っていないけれど聴こえてくるようでした。この表現について「クドすぎる」という批評をされる方もいます。それも1つの意見ですが、私は圧倒的に前者でした。
スピンオフ小説には、さらにチャーミングな登場人物たちの様子が描かれていました。
設定変更は沢山有り過ぎて全て挙げられませんが、私が特に気になった具体例を挙げます。
登場人物の性格が曲げられている
原作:登場人物がみんなお茶目・惹きつけられる人柄
映画:心理描写が控え目で無味乾燥・冷たい印象
原作の「蜜蜂と遠雷」の登場人物全体に共通して言えることに、キャラクターそれぞれ性格は少しずつ違えど、この特徴があったと思います。それが読者を惹き付けた要因だと考えます。
すごく酷い言い方をすると、
マサルの性格が捻じ曲げられ過ぎて、亜夜もなんか冷たくて、明石がしゃしゃり出過ぎで(松坂桃李さんを起用しているからって)塵(ジン)がただの自然児になっていて(鈴鹿央士さん自体の雰囲気はとても好きでした!)残念でした。
マサルに関する原作と映画の変化
◆二次予選で“春と修羅”を弾いた後、廊下ですれ違った師匠のナサニエルに「勝手な演奏はするな」と言われる
⇒原作のマサルは全編において、独りよがりな演奏はしない。次々とみんなを魅了していく。ナサニエルとマサルの師弟間の信頼関係は強固。ナサニエルはマサルを全信頼しているし、コンクール中にこんな酷い言い方で言葉はかけない。
◆コンテスタントの演奏中、ロビーで客人と会っている
⇒原作のマサルはホールの中で少しでも多く他のコンテスタントの演奏を聴くことを楽しみにしている。それは亜夜や塵(ジン)も同じで、亜夜はドレス姿でも聴きに行く。他のコンテスタントの演奏をモニター越しに聴く描写が多いのはとても残念。
◆本選リハのオケ合わせで指揮者の小野寺に何度も「ちょっと違う」と食い下がる
⇒原作の本番リハにおいて、マサルの演奏に楽団員一同すっかり魅了されてしまいスター誕生を確信させたものだった。ましてやトラブってもいない!
◆本選の演奏直前、マサルは亜夜と連弾することによって、オケとの食い違いを修復する
⇒そもそも、こんなシーン無い。
全体的にマサルが気の強いスカした感じに描かれ、そのスター感は本当に軽んじられていたと思います。マサルは演奏だけでなく冷静に色々考える策士ではあるけれど、もっと温かい可愛らしい人だと思います。コンクールで亜夜に再会した際、亜夜の手を取ってから暫くずっと握ったまま会場に入って演奏を鑑賞してた程です(好きな女の子の手を握って離さないまま)。
そして彼は激戦のコンクールの最終勝者。人々を魅了する演奏家であるはずです!
他の登場人物の変化
◆亜夜が孤独で終始影を背負っている冷たい感じ(最後吹っ切れるが)
⇒亜夜に13歳で表舞台から去った際のトラウマはあっても、それからも音楽が好きでバンド演奏なども続けていた。影があるというより、とてもナチュラルでコンテスト(演奏家として生きる)がどこか少し他人事のようだったのが原作。塵やマサルなどの演奏に触発されて眠っていた才能が目覚めて開花するのが、亜夜の成長。
◆塵が滞在先(それもホテル?)で箱型の模型ピアノで必死に練習する
⇒塵は直前にコンテストのために必死で練習するキャラじゃない。模型のピアノなんて持ってきていない。原作で、塵は父の知り合いの花屋に寝袋を持って身一つでお世話になり、後半では華道にも夢中になっていたほど。
◆春と修羅の作曲者・菱沼が作曲について「ギャラが見合ってない」とゲスい発言をする
⇒菱沼は江戸っ子口調でチャキチャキしてはいるが、そんなゲスい話はしていない。スピンオフ小説で分かることだけれど、「春と修羅」には、40代の志半ば亡くなった自分の教え子への思いも込められている。もっと人情に熱い人だと思う。
◆指揮者の小野寺が意地悪
⇒そんなにピックアップされる存在ではなかったし、ましてや意地悪でもなかった。
◆明石が全面に出ている
⇒明石は映画化でカットせざるを得なかった亜夜の親友・奏(かなで)の役目を担っているといっても…、松坂桃李さんを起用しているから全面に使っているとしか見えない。また、明石は「春と修羅」のカデンツァの作成を妻に聞いてもらう時、映画の中で「(妻や息子のような)素人にも理解できる音楽にしたいんだっ!」と苛立つシーンがあるが…そんな激高するキャラクターにも思えない。明石はとても優しいピアノを奏でるんです。(明石と松坂桃李さんが嫌いな訳では、決してありません!)
設定はカットではなく変更されている上、余計なシーンが付け足されている
時間の関係で大幅カットされているのに、片桐はいりさんがクローク役で出演されているシーンや、本選のリハーサルのいびりシーン、本選前夜のオーケストラ演奏シーン、これは必要だったのでしょうか?
前述のマサルの性格が捻じ曲げられていたのが私は一番嫌でしたが、それに次いで、本選で亜夜が直前で逃げ出しそうなシーン、そこから明石とロビーで会って話し亜夜が一方的に泣き出すシーンと、原作との変貌ぶりが疑問しか感じませんでした。
本選まで進んだ亜夜はもう強くなっていて、こんな直前で逃げ出そうなんてしません!また、原作で3次予選の結果発表待ちの場面で、亜夜と明石が2人して大泣きするシーンはとても感動するシーンです。
明石が3次予選の亜夜の演奏を聴き自分の過去の記憶と重なって感極まって既に涙目になっている。そこに出くわした亜夜に「ありがとう、栄伝さん」と話しかける。
⇒亜夜もハッとし堰き止めていた感情の糸が切れ泣き出し、結果2人で大泣きする。
⇒亜夜は「高島明石さんでしょ。あたし、あなたのピアノ好きです。次の演奏も聴きに行きたいです」と既に予選落ちしている明石へ感動の気持ちを伝える。
それなのに、石川監督は、 最後まで「これは残そうかな…」と悩んだようなシーンについて「明石まわりですね。あの家族の回想のシーンはすごく好きで」とおっしゃっていますが…この物語全体を通して、明石の家族シーンがそこまで重要だったのでしょうか?微笑ましいシーンではありますが。(明石が嫌いなのではありませんっ!)
それよりも、こういったピアニスト同士の心が動かされたシーンの再現、みんなの起爆剤となった塵の奇才ぶりについての再現や(音でなくてもエピソードでも)や亜夜とマサルの微笑ましいやりとり、カットされた奏が亜夜を支えたことなど、もっと物語全体に与える重要なエビデンスがあったと思います。
細かい部分はまだまだあります。書ききれません…。
登場人物の心理描写があってこそ、音は人の気持ちを動かすと思う
小説は、文庫版上下巻併せて1000ページ弱。このボリュームを2時間という限られた時間にまとめるためにはエピソードの精査など当然必要だったと思います。
石川慶監督は、映画は短い方がいいという考えで「特に音楽映画は短く、シュッと駆け抜けるような、その1本自体が音楽みたいな映画にしたい」とおっしゃり、恩田さんは「“映画でしかできないこと”をやってください」とお願いされたそう。
映画でしか出来ないこと「小説の音を再現する」
小説では出来ず、映画でしか出来ないことの一つは「小説の音を再現する」です。
映画化して音を再現するのは、その小説をモチーフにして実際の曲をつくり一流の演奏家にオファーして音を奏でればいいのでしょうか?
私はそうは思いません。小説の「蜜蜂と遠雷」の音楽に魅了されたのは音そのものではなく「“音が生まれた背景にあるもの”が心を動かしたから」です。
“音が生まれた背景にあるもの”=各キャラクターの性格・エピソード・心の動き
と考えます。これを大事にした上で、音も再現する事が必要だったのではないでしょうか?
尺の関係でエピソードをカットするのは やむを得ないです。
けれど、それによって登場人物の魅力的な性格を違うものにしていたことに、私は腹立たしいとさえ思いました。
「音さえ出せばいいの?それも、特別心を動かされる程の演奏シーンもないし。それよりもっと大事な要素が欠けている」と思いました。
ドキュメンタリーを見ているような構成について
また、石川監督は、ドキュメンタリーを見ているような構成にこだわったそうですが…。
数多く存在するミュージシャンのドキュメンタリーが魅力的なのは、実際の演奏場面にプラスしてそのミュージシャンの人となりが分かるエピソードが伝えられているからだと思います。
音楽の再現について
音楽の再現は、全てを通して特段感動するとまではいきませんでしたが(もちろん酷いとは思いませんでした)、春と修羅の亜夜のカデンツァ(河村尚子さんの演奏)は素晴らしいなと思いました。「春と修羅」の作曲を小説ベースでオーダーして、4パターン一流演奏家が演奏するというのは、確かに映画製作をする機会でないと実現しなかったことだと思います。
全体の演奏シーンで手と身体と音の動きも不自然でチグハグなのは少し気になりました。
また、原作を読んでいない人はバイアスがかかっていないので高評価の声もあるようです。
まとめ:原作と映画は切り離した作品として考えた方がいい
・原作の世界が好きな人には、とても歯がゆい思いのする作品
・原作と映画は「別の作品」と考えて真っ新な気持ちで観るのがオススメ
・一方で原作を読んでいない人はバイアスがかからず高評価の声も
・一番悪いのは脚本で、原作と役者と音楽家の無駄遣いだと思った
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